大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 昭和49年(行ツ)112号 判決 1976年5月06日

上告人

愛知県地方労働委員会

右代表者

中浜虎一

右補助参加人

中部日本放送株式会社

右代表者

小島源作

右訴訟代理人

本山享

外三名

被上告人

CBC管弦楽団労働組合

右代表者

寺西玄之

右訴訟代理人

花田啓一

外一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告補助参加代理人本山享、同岩瀬三郎、同四橋善美、同那須国宏の上告理由第一点一及び第二点について

第一審判決と付加訂正のうえこれを引用した原判決の判示によれば、本件の争点に関する原審の判断内容は十分理解することができ、所論の指摘する用語の不統一等は、いずれも明白な誤記と認められる。また、原判決が上告補助参加人の原審における主張について判断していることは、その判文上明らかである。それゆえ、原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第一点二、第三点及び第四点について

論旨は、要するに、本件自由契約のもとにおける上告補助参加人会社(以下「会社」という。)の放送管弦楽団員(以下「楽団員」という。)は独立の事業者とみるべきであるにもかかわらず、原判決が、これを会社の雇用する労働者にあたるとして、楽団員の組織する被上告人組合と会社との間に労働組合法七条二号の不当労働行為が成立しうると判断したのは、同条及び憲法二八条の解釈適用を誤り、かつ、理由不備、理由齟齬、審理不尽の違法をおかしたものである、というのである。

ところで、会社と楽団員との関係について原審の認定するところは、大要次のとおりである。

(一)  放送事業を目的とする会社は、昭和二六年、会社の放送及び放送付帯業務に出演させるためにCBC管弦楽団をつくり、楽団員と放送出演契約を締結した。その契約は、当初は、「専属出演契約」といわれるものであつて、これによると、(1) 契約期間(一年。ただし更新される。)中、楽団員は、会社が指定する日時、場所、番組内容等に従つて会社の放送及び放送付帯業務に出演する義務を負うとともに、会社以外の放送関係業務に出演すること(以下「他社出演」という。)を禁止され、(2)その出演報酬として、会社から楽団員に対し、毎月、保障出演料(会社が月間の標準出演時間を指定し、現実の出演時間がこれに達すると否とを問わず支払われる出演料)と超過出演料(右標準出演時間を超えて出演したときに一時間単位で支払われる出演料)が支払われるが、(3) 契約期間中であつても、正当な理由があるときは一か月の予告期間をおき、また契約違反があるときは直ちに、両当事者において契約を解除することができるものとされていた(ただし、右正当理由による解除の規定は当初はなかつた。)。そして、楽団員には芸能員就業規則が適用され、保険衛生や災害補償等について会社の一般従業員に準ずる取扱いがされていた。

(二)  右契約は一年ごとに更新されていたところ、昭和三九年に至り、「優先出演契約」なるものに改められ、これによつて、(1) 楽団員の他社出演等は自由となつたが、会社から出演発注があつたときは、楽団員は指定された番組に優先的に出演する義務を負うものとされ、(2) 出演報酬及び契約解除については従前と変らず、また、(3) 楽団員に対する芸能員就業規則の適用はないことになつた。

(三)  その後間もなく、会社は、楽団員との関係を更に「自由出演契約」なるものに切り替えることとし、昭和四〇年一〇月までの間に楽団員全員と右契約を結んだ。この契約については、(1) 楽団員の他社出演等は自由であり、楽団員が会社からの出演発注を断わることも文言上は禁止されておらず、(2) その出演報酬としては、年額・月割払で楽団員が会社の出演発注に応じないことがあつても減額されない契約金と一時間一〇〇円の割合による出演料を支払うものとされ、(3) 契約解除については従前と同様であり、(4) 楽団員に対する芸能員就業規則の適用もないこととなつていた。右自由出演契約の締結にあたつては、専属性を弱めるものであるとして楽団員側が難色を示したが、会社からは、同契約のもとにおいても専属出演契約の重要な部分は実体としては残すから安心するようにとの説明がされ、会社も楽団員も、右契約によつて出演発注に対する楽団員の諾否が文字どおり自由になるのではなく、出演発注があれば原則としてはやはりこれを拒否できず、いつも発注に応じないときは、契約解除の理由となり更には次年度の契約更新を拒絶されることもありうるものと考えていた。また、昭和四〇年当時は、会社が出演を求める番組そのものが少なくなつたため、楽団員の出演時間が以前より著しく減小し、月平均九時間程度となつていたが、このような事態は楽団員の予想していたところではなく、もともとその将来の生活を保障するからということで契約した楽団員としては、会社からの出演発注があることを常時期待していたものであり、このため、現実の発注が少なかつたとはいえ、楽団員が他社出演をした例は一、二を数えるにとどまり、多くの者は夜間キヤバレー等でいわゆるアルバイト程度のことをして会社からの出演報酬の不足分を補つていた。

以上の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、すべて是認することができ、その過程に所論の違法はない。

そこで、右事実に基づいて考えるのに、本件の自由契約が、会社において放送の都度演奏者と演条件等を交渉して個別的に契約を締結することの困難さと煩雑さとを回避し、楽団員をあらかじめ会社の事業組織のなかに組み入れておくことによつて、放送事業の遂行上不可欠な演奏労働力を恒常的に確保しようとするものであることは明らかであり、この点においては専属出演契約及び優先出演契約と異なるところがない。このことと、自由出演契約締結の際における会社及び楽団員の前記のような認識とを合わせ考慮すれば、右契約の文言上は楽団員が会社の出演発注を断わることが禁止されていなかつたとはいえ、そのことから直ちに、右契約が所論のいうように出演について楽団員になんらの義務も負わせず、単にその任意の協力のみを期待したものであるとは解されず、むしろ、原則としては発注に応じて出演すべき義務のあることを前提としつつ、ただ、個々の場合に他社出演等を理由に出演しないことがあつても、当然には契約違反等の責任を問わないという趣旨の契約であるとみるのが相当である。楽団員は、演奏という特殊な労務を提供する者であるため、必ずしも会社から日日一定の時間的拘束を受けるものでなはなく、出演に要する時間以外の時間は事実上その自由に委ねられているが、右のように、会社において必要とするときは随時その一方的に指定するところによつて楽団員に出演を求めることができ、楽団員が原則としてこれに従うべき基本的関係がある以上、たとえ会社の都合によつて現実の出演時間がいかに減少したとしても、楽団員の演奏労働力の処分につき会社が指揮命令の権能を有しないものということはできない。また、自由出演契約に基づき楽団員に支払われる出演報酬のうち契約金が不出演によつて減額されないことは前記のとおりであるが、楽団員は、いわゆる有名芸術家とは異なり、演出についてはなんら裁量を与えられていなのであるから、その出演報酬は、演奏によつてもたらされる芸術的価値を評価したものというよりは、むしろ演奏という労務の提供それ自体の対価であるとみるのが相当であつて、その一部たる契約金は、楽団員に生活の資として一応の安定した収入を与えるための最低保障給たる性質を有するものと認めるべきである。

以上の諸点からすれば、楽団員は、自由契約のもとにおいてもなお、会社に対する関係において労働組合法の適用を受けるべき労働者にあたると解すべきである。したがつて、楽団員の組織する被上告人組合と会社との間に同法七条二号の不当労働行為が成立しうるとした原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はなく、所論違憲の主張は、右違法のあることを前提とするものであるから、その前提を欠く。論旨は、すべて採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(岸盛一 藤林益三 下田武三 岸上康夫 団藤重光)

上告補助参加代理人本山亨、同岩瀬三郎、同四橋善美、同那須国宏の上告理由

第一点 上告人補助参加人(以下「会社」という)が、本件上告をした理由について。

一、原判決は、その結論において、被上告人の請求を認容し、上告人(原審控訴人)及び会社(原審控訴人補助参加人)の主張を排斥しているが、その理由の骨子は、記録上明らかな通り、基本的に本件第一審判決のそれに負うていることが明白である。

然しながら、原審及び本件第一審における事件の争点は、記録上明らかな様に、要するに、被上告人CBC管弦楽団労働組合(以下「被上告人労組」という)の構成員と会社との間に使用従属関係があり、右構成員を会社に従属する労働者」といえるか否か、従つて亦、右構成員で組織されている被上告人労組が団体交渉権の主体たりうるか、参加人はその相手方として労働組合法(以下「労組法」という)第七条二号にいう「使用者」に該当するかどうかであるところ、本件第一審は、その結論において、被上告人労組の構成員である各団員(以下「演奏契約者」という)と会社との契約関係は、いわゆる自由出演契約においても使用従属の関係があり、右演奏契約者を労組法第三条にいう労働者と認め、これらの者で組織する被上告人労組を団体交渉権の主体たりうるものとし、会社は労組法第七条二号にいう使用者にあたるものと判断している。

会社は、原審において、右第一審判決が右結論を導くに至つた理由中の事実認定ないし価値判断に対し、具体的にその個所を指摘し、事実誤認ないし理由不備の違法がある旨詳細に主張したにも拘らず、原判決は、会社の右控訴理由に対して充分に判断すべきであるという控訴審としての当然の職務を怠り、「参加人は当審においてるる陳述するけれども……明らかである」と会社の控訴理由に対する判断を避けている。この点、原判決には、判断逸脱の違法が存する。

しかも、原判決は、本件第一審判決の字句を若干付加・訂正し、これを引用するという接合方式を採用しているが(原審が判決方式として、右の如き方式を採用したことは裁判所の専権事項であるので、違法という問題を生ずる余地は存しないであろう。しかし、記録上明らかな様に、第一審判決時における当事者としては、原審判決時における当事者以外に原告としてCBC合唱団労働組合が存しており、第一審判決は、先づ右CBC合唱団労働組合の団員(演唱契約者)と会社との法律関係を右両者の証拠関係に基づき認定し、更にこれを被上告人労組に引用するという方式を採つていたので、原審の審理中に被控訴人CBC合唱団労働組合の法律関係が消滅し、その証拠関係を引用し得なかつた、本件事案においても、原審があらためて判決を書かずに第一審判決を修正し、これを引用して判断するという判決方式を採ることは無理であつて、右方式を採用したことに対する当否については疑問が残る)、後述する様に、原判決には事実誤認、理由不備等の違法が存するが故にその破棄は免れないものと思料するが、更に原判決は、第一審判決の字句に対して付加・訂正を行うと称していながら、実際には右付加・訂正を正しく行つていないという違法をも犯している。

会社は、会社と被上告人労組の構成員である演奏契約者との間の契約には、その実態に照らし、使用従属関係が存せず、従つて亦、会社は被上告人労組との関係において労組第七条二号の使用者に該当しないと確信しているが、これに反する判断をなした原判決の結論はもとより、その認定理由は経験則の法理からしても到底承服できないので、その取消を求めるべく本件上告に及んだものである。

二、右の様に、原判決及びこれにより支持された第一審判決は、被上告人労組は団体交渉権の主体たりうるものであつて、会社はその相手方として労組法第七条二号にいう使用者である旨判示しているが、右判決は、いずれも労組法第七条二号にいう「使用者」、「労働者」の意義の解明を明らかに誤り、同号の解釈上、労働者と認めえない者についてこれを労働者と解し、その前提に立脚して、会社を使用者と肯認しているものである。

言うまでもなく、労組法第七条二号の団体交渉に関する規定は憲法第二八条の保障する団体交渉権から導かれたものであつて、原判決は、後述する様に労組法第七条二号の「雇用する労働者」の意義の解釈を誤つているのみならず、同号の前提となる憲法第二八条の「勤労者」の意義、ひいては同条の解釈を誤つたものである。

この様に、原審の説示する労働者の概念は、労組法第七条二号が予想する不当労働行為救済制度の趣旨を明らかに逸脱するものであつて、原審の認定は、本件事案の性質上、今後わが国における労使関係の処理並びに不当労働行為制度の運用について多大の影響を斉らすことが予想され、しかも、原判決に対して上告せず原判決をこのまま確定させるときには、以後の下級審判例を混乱せしめるおそれも極めて大きいものと思料される。

してみれば、原判決の及ぼす影響は、独り参加人会社という一企業における労使関係、或いは上告人という一地方労働委員会における行政処分の当否というに止らず、最高裁判所の判例統一という観点からしても、会社はこの際、団体交渉における「使用者」概念に関する最高裁判所の判断を求めるべきであると考え、敢えて本件上告に踏み切つた次第である。

第二点 <略>

第三点 原判決には、法律の解釈及び適用を誤つた違法があり、これが判決主文に影響していること明らかであり、破棄を免れない。

即ち、原判決は、会社と被上告人労組の構成員である演奏契約者との間に使用従属の関係が存し、会社は労組法第七条二号の使用者であると判断している。しかし、原判決は使用従属関係につき、その法律上の意味内容を誤解し、その結果、会社が労組法第七条二号のいう使用者に該当する旨判断したものであつて、右誤れる法律解釈に基づき同条項を適用した原判決の判断には、会社としては、到底承服し難いものである。

従つて、会社は、以下原判決の使用従属に関する法律解釈の誤謬を理論的に解明し、次いで、原判決にあらわれた事実からは、法律解釈上、到底、使用従属の関係が認められないことを明示して、原判決は法令違背の違法のある判決であることを明らかにするものである。

第一、原判決の使用従属に関する法律解釈とその理論の誤謬。

一、原判決によれば、使用従属の関係があると認められるのは、

(一) 「契約文言の上からは、直ちに民法の典型契約の一たる雇傭契約とは目し難い一種の無名契約というべきであるけれども、実質的には、経済的弱者として相手方による労働条件の一方的決定を甘受せざるを得ない状態にあると認められる場合は、使用従属関係にあるものとして労組法の保護を受ける労働者と認めるのが相当である」(原判決一三丁表一〇行目乃至同丁裏一行目、原判決の引用する第一審判決理由二〇丁表九行目乃至同丁裏四行目)。

(二) 「演奏契約者も、参加人が一方的に決定した契約内容に基いて、年間を通じ芸術的労働力の提供者として、参加人が一方的に指定した日時、場所、番組内容に従い、制作担当者の指揮監督の下に、参加人に芸術的労働力を提供し、その対価として一定の報酬を受けているものであり、その限りにおいて従属する労働者であると解するのが相当」(原判決の引用する第一審判決理由四五丁表一行目乃至七行目)。

(三) 「自由契約下においても、参加人はその経済的優位を利用し、その目的たる必要な労務を、その欲するときに(随時)確保しうることが明らかであり、契約者の労務の具体的提供状況も、参加人の指示する者の指揮支配下にあるものであることが明らかである」(原判決一九丁表四行目乃至八行目)。

以上三つの理由づけがあるというものの如くである。

右の理由づけの中の重要な点は、次の三点に要約できるものと思われる。即ち、

演奏契約者は、会社との関係において、

(1) 経済的弱者として相手方による労働条件の一方的決定を甘受せざるを得ない状態にあると認められること。

(2) 一方的に指定された日時、場所、番組内容に従つて、制作担当者の指揮監督下に労働力を提供すること。

(3) 対価として一定の報酬を受けること。

であり、右三点が原判決を支える理論的骨子である。ただ、(3)の「対価」に関しては、他の有償委任・請負の契約関係にもみられ、使用従属関係の存否の判断に直接関係がないと思われるので、右(1)、(2)に注目すれば足りると思料する。

二、原判決の理論的根拠の誤謬。

(一) 前記(1)の経済的弱者なる故を以つて相手方の一方的な労働条件の決定を甘受せざるを得ない状態が認められることは、使用従属関係の有無とは全く関係ないものである。

(1) 現在の通説では、労働を独立労働と従属労働の二種に分け、前者の労働を行う者に医師・弁護士・美術家等が挙げられている(例えば孫田秀春「学説判例批判・わが国労働法の問題点」九四頁、幾代通「注釈民法(16)・債権(7)」三頁、等)。現代社会において、右の如き独立労働を行うと目される者がその労働を提供するに際し常に経済的優位或いは劣位に立つものではなく、亦、経済的劣位に在つても常に従属労働を行うとは限らない。斯ることは、労務供給契約の実態に思いを致せば、経験則上容易に思料され得るところである。

(2) しかも、原判決の右理論的根拠の誤謬は更に根本的に存する。即ち、使用従属の関係にあるか否かは、如何なる「労働条件」で労働するかによつて決定される問題である(ここで謂う「労働条件」は労働基準法(以下労基法という)において明示が要求されている意味のそれではなく広義の意味で解すべきものである)。この「労働条件」には「給付さるべき労働そのものに関する条件」と、「どのようにしてその労働が給付されるべきかの条件」を含む。労基法が明示を要求している労働条件は前者であつて、使用従属下の労働に関与しているものである。

原判決の説示する労働条件が、右の如く広義の意味を含めているのであれば、使用従属関係の存しない労働についても使用従属の関係を認めることになり、何ら実質的意味のない定言に過ぎない。又、原判決が労基法で明示することを要求している労働条件であるという説示であるとすれば、前述の如く、右労働条件は使用従属下にある労働に関与しているものであるから、結局、「使用従属の関係にある者」が、「労働条件の一方的決定を甘受せざるを得ない状態にある者は使用従属の関係にある」ということに帰着し、同語反覆の矛盾を犯しているというべきであり 理論として成立しないと謂うのほかない。

原判決における右の如き根本的誤謬は、使用従属に関する学説等を少しも省みず、独断且つ安易に終始した故であると思料される。

(3) 「労働条件」に関する原判決の誤りは暫く措くとしても、なお、問題は、「労働条件」の一方的決定を甘受せざるを得ない状態にある経済的弱者の部分である。これは、「労働条件」を労働と賃金(報酬)に関する条件と置き換えてもよいと思われるが、二つの疑問が存する。

第一点は、賃金につき強力な団体交渉を実施できる労働組合をもつ労働者は、使用従属下に置かれていないのか。

第二点は、経済的弱者で生計を立てる手段が他にないため、相手の一方的決定を甘受せざるを得ないという状態の存否は、今日の実定労働法規・学説からは問題にされていないのに拘らず、何故、原判決が殊更問題にしているが、ということである。

右第二点の疑問の根拠は、幾代通氏が「注解民法(16)・債権(7)」九頁において、「わが国の実定労働法規や労働法学説は、労働法の保護を受くべき労働者・労働関係という概念の外延を――解釈論としても立法論としても――原則として最も広くとらえ、当該労務供給契約が当該労務者の生計を立てる唯一のもしくは主要な手段であるとか……いつた具体的ないし形式的な限界づけはいつさいしないのが一般だということである」と論述されている通り、労務供給契約が当該労務提供者にとつて、唯一又は主要な生計手段であつたとしても、それは労務供給契約の当事者間においては、双方の合意の中で重要な法律的意味をもつものではなく、右契約関係の法律的性質に無作為又は当然には影響を与えるものでないということが、暗黙の前提になつていると推断できるからである。

(4) 原判決は、条件の「一方的決定の甘受」という契約内容決定の形式面を重要視しているけれども、その一方的決定甘受」のために決定された契約内容に使用従属関係が認められるのであるという論証を全く行つていないのは、理解に苦しむところで全く理由不備の判断といわなくてはならない。

(二) 演奏契約者が一方的に指定された日時・場所番組内容に従つて、制作担当者の指揮監督下に労働力を提供する点で、原判決は使用従属の関係があると説示するけれども、この理論は極めて不充分であり、暖味というほかない。この不充分・暖味さは、使用従属の関係とは如何なるものであるかについて認識がなかつたため生じた誤りと思料される。

而して、原判決の前記説示の誤りを理解するため次の点を確める要があり摘示する。即ち、来栖三郎氏が「契約法」(法律学全集二一巻)四一四頁において、ジンツハイマーの所説を引用して、「従属的労働の場合には雇主が労働者の労働給付を指図しうるということだけが問題なのではない……指図ということなら一切の債権関係において債権者が為しうる。しかしそれによつては未だ法律上の従属性は生じない」と論述している点である。ジンツハイマーは、従属労働につき法律的従属と解し、社会的・経済的従属と解する立場とは対象的であり、従属労働について優れた見解を示すものであるけれども、ここではその点に触れず、むしろ右に引用の労働給付の指図についての鋭い指摘を見直したい。

即ち、ジンツハイマーは「たしかに、債権者以外の何者でもない債権者でも、債務者に対し、指図を与える場合があり得る。例えば、洋服屋に洋服の仕立を注文する場合、私は洋服屋に対しその労働をいかに実行すべきかについて指示を相えることができる。しかしながら、かかる指図権は命令権ではない」(「労働法原理第二版」樽崎二郎・蓼沼謙一共訳一五三頁)とし、労働給付の指図は使用従属の関係にあることを示すものでないことを解明している。

原判決は、制作担当者の指揮監督というけれども、原判決の中にあらわれた事実は、演奏に際しての指揮者の指揮のみであり、これは明らかに労働給付の指図に過ぎない。又、日時・場所・番組内容が一方的に指定されると説示するが、これらも演奏契約者に提供を求める労働給付に関する指図に過ぎない。

従つて、原判決の右説示は、本件演奏契約につき使用従属関係の生ずるものとすることはできないというほかない。

上述の通り、原判決の前記説示は、使用従属の関係につき、その法律解釈を誤り、不当な結論を導出していること明らかであり、右誤謬が判決に決定的な影響を与えている点で破棄を免れない。

第二、原判決が認定した事実からは、如何に考察しても会社と演奏契約者との間に使用従属の関係を認めることができない。然るに、原判決がこれを認めたことは、明らかに事実に対する法律の解釈・適用を誤つた違法が存し、破棄されるべきものである。

即ち、本件における最も基本的に重要な争点は、会社と被上告人労組に所属する演奏契約者との間に労働法上の使用従属関係が存するか否かの問題である。被上告人労組は、演奏出演契約により会社の下に従属労働に服していて、使用従属関係ありとし、会社は右契約者には使用従属の関係は存せず、特に愛知県地方労働委員会における審理結審時においては使用従属関係の全く存しないことを縷々詳細にわたり主張・立証してきたところである。然るに、第一審及び原審判決が被上告人労組の右主張を安易に容認し、使用従属の関係ありと判断していることは上述の通りである。(尤も、労組法上「労働者」とは、職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者をいう(同法第三条)のであつて、労働者の意義に関し、原判決の如く、理論上十分なる解明なくして専ら使用従属の関係のみでこれを把握し、認定しようとする態度については、疑義を有せざるを得ないが、その点はしばらく措き、一応原判決の判示する使用従属関係にその本質を求める立場に立つても、以下詳述するように、会社と右契約者間には使用従属関係は存しないものである)。

会社は更に、学説上、従属労働とは何かにつき概観し、被上告人労組の前記主張及びこれを認めた原判決の判断が正当でない所以を明らかにする。

一、従属労働の本質に関する学説と本件演奏出演契約

(一) 従属労働の本質の何たるかについては学説も区々であるが、大別すれば、次のように挙げることができる(浅井清信「改訂増補・労働契約の基本問題」一九五頁以下)。即ち、従属労働の本質を、

(1) 労働供給者の経済上の従属性に求める説。

(2) 労働義務者が雇主の意思の支配に服することに求める説。

(3) 労働義務者が他人の経営に組入られるということに求める説。

(4) 労働義務者の服従義務或いは雇主の管理機能・正当な管理に求めんとする説。

(5) 継続的期間を以つて、種類に従つてのみ決定された労働が約束されるというところに求めようとする説。

(6) 法律上の権力関係の下において行われる労働であるところに求める説。

などがある。

而して、右の学説を検討しながら、会社の主張せる根拠を明確にする。

(二) 前記学説の摘示と本件演奏出演契約との対比。

(1) 会社と演奏出演契約はその契約の実態より所謂「経済上の従属性」を到底認めることはできない。

ここに「経済上の従属」といわれている意味は必ずしも明確でないが、浅井氏の前掲書で示されたところに従つて推論すれば、法律的意味の従属ではなくて、純然たる社会的経済的意味における従属をいうものである(孫田秀春・常盤敏太著「新訂労働法通義」二一頁)。

本件第一審判決は、「優先・自由両契約を通じ、相当数の演奏契約者はキヤバレー、ナイトクラブ等で稼動している」ことを認め、「その報酬は参加人(会社)との契約による報酬の不足分を補う程度のものであつた」と認定している。しかし、契約は毎年契約当事者双方の合意によつて成立し、報酬も本人の自由意志に基づく交渉の結果決定されている。これは、第一審判決四二丁裏七行目乃至九行目、同三一丁裏末行乃至三二丁表八行目の認定からも認められる。

即ち、予じめ報酬額を各個人が各自己の見込額を有し、この心的計算をベースとして会社と交渉しているのであつて、会社と契約した報酬が少いから「巳むを得ず」他から収入を得るとするが如き主張をなす者があつたとしても、自己の演奏能力を顧みることのないかかる「巳むを得ず」という見解は到底採用できぬ筈のものである。また、会社よりの収入が副次的であつて、他から主たる収入を得ているのが実情であることは、演奏契約者自ら認めていることで明らかである。

これは独り神谷治雄に限らず、例えば、演奏契約者磯部悦雄は第一審において、昭和四〇年当時、社会会館ゴールデンスターにおいてスイングライナーズバンドの一員として「毎夜」出演していたことを供述しており、また、同寺西玄之は専属契約時代からキヤバレーに出演し、その報酬は「月額」であつたことを第一審で明らかにし、或は同人は約一〇年に亘りピアノの教授をなしていること等を原審で供述しているところである。

なお、寺西玄之は、吹奏楽器の人がキヤバレー出演が多く、そういう場所での演奏は会社のためであると主張しているが、名古屋のキヤバレー等における演奏団体は吹奏楽器を主体とする所謂ジヤズバンドが主流であつて、タンゴバンドの如きバイオリン等の弦楽器を主体とするバンドが非常に少なかつたために、吹奏楽器奏者のキヤバレー出演が多かつたものである。

また、演奏契約者らのキヤバレー出演が「流行している曲を練習できる」故を以つて会社の利益になると同人は主張しているが、それは演奏者自身の一般的な市場範囲拡大に役立つことであつて、直ちにそれが会社の利益になるのではない。即ち、会社は必要によりその曲に最も適する演奏者を、演奏契約者を含む多数の演奏技能者の中から選択することが可能であつて、現にそのように為しているところで明白であり、以つて右主張は全く詭弁である。第一審判決が、演奏契約者につき会社よりの報酬があつたと誤認しているが、かかる事実が重要でないことは前記の通りである。

因みに、本件の愛知県地方労働委員会における結審時である昭和四〇年一〇月現在、演奏契約者の一人平均月額契約金は四三、八七五円で、出演料に合わせて四五、七五八円である(丙第三号証の三附表。平均年令四〇才)。右時点における会社の一般職員の給与の平均は、本給三八、二〇〇円、月収五二、〇〇〇円(平均年令三〇才)である。

(2) 演奏契約者が会社の雇主としての意思のもとに、その支配に服している事実は原判決認定の事実によつても認められないところである。

このことは会社の職員と演奏契約者との取扱いの実態、例えば所定就業時間・タイムカード・労働者名簿・賃金台帳などの有無等々、を比較することにおいて極めて明白である。

仮りに、会社の意思の支配に服する関係にあるとしたなら、出演発注(業務命令との比較において)に対し、本人の全く自由な意思によつて、その出演発注に応ずるかどうかを決定し得ないところであり、若し発注を拒否することになれば企業組織体の秩序を破壊することになるので秩序違反として制裁の対象となること必至である。しかし、演奏契約者は、その契約の文言からも実態からも、出演を拒否しても或は出演を応諾しながら無断で出演しなくても、一度もかかる制裁を会社がなした例は存しないのである。

(3) 愛知県地方労働委員会における結審当時においては、本件演奏契約者と会社との間には契約自由の原則のもとに、会社の出演発注に対し、諾否自由の立場において、これを受諾したときにはじめて出演義務が発生するという法律関係が存するに過ぎず、出演を受諾しながら実際に出演しなくても所定の契約金の支払を会社は行い、何ら制裁的措置をなしていないのであつて、かかる実態を会社が雇傭している職員と比較すればその異なることは極めて明瞭である。

また、原判決は、演奏契約者が出演のため常時自宅待機を余儀なくなされているから、就労時間の定めがなくとも時間的に拘束され、会社の一般的労務指揮の支配下に常時あると解されるから、愛知県地方労働委員会における結審時の自由契約当時でも、演奏契約者と会社との間に使用従属の雇傭関係が存するものと判断している。

しかし、使用従属関係の認められる出演のための自宅待機とは、一種の作業待機というべきものであり、労働時間に算入さるべきものであつて(ジンツハイマー前掲書一二一頁)、原判決は経験則上ありうべかりし事実につき、これを無視し、「待機」を全く誤解している。

前述の如く演奏契約者の自由な意思によつて、出演発注に対し諾否が全く自由という「自由契約」の立場から、演奏契約者が出演のため常時待機の必要は全くないのであり、受諾を拒否し出演しない実態、或は出演しなくても所定の契約金が支払われることから、常時待機などという現象が起り得る余地のないことはまことに見易い経験上の事実である。

例えば、昭和四〇年頃(自由出演契約当時)出演依頼のため会社芸能部員職員鈴木幸雄から演奏契約者山口義高に連絡したが、同人は当時他社(岐阜市所在のニユー森永)に「毎日出勤」していて、自宅に電話がなく、己むなく、右勤務先に電話連絡を度々なした事実も存するところである。

演奏契約者が不在の場合、発注のみならず私的なことで連絡のためその行先を家人に知らせておく程度のことは社会人としての常識である。これをしも「自宅待機」の範疇に包含して、直ちに雇傭契約なりと解するならば、企業と何らかの契約を締結している弁護士・公認会計士など或いは委任・請負等の契約締結者はすべてその企業との間に雇傭契約が存し、企業組織に組入られているという帰結となる。この点からも原判決は重大な誤謬を犯しているものと断ぜざるを得ない。

(4) 本件演奏契約者は、自由契約と称する演奏出演契約を締結している故を以つて、出演発注に対し応諾しない場合でも、会社に服従しなければならないとする論は、本件演奏出演契約の契約内容及び出演の実態を正視せざる暴論といわなくてはならない。

会社の職員は雇傭契約締結により、会社就業規則に基づき直ちに服従義務が生じ、会社組織内に組み入れられ、従つてまた、会社の指揮命令を拒むことはできないが、演奏契約者は契約に基づき出演した場合以外においては、会社との関係は、自由な協力関係という基本的契約関係が存するだけあつて、何等拘束という関係は生じ得ない。

(5) 本件演奏契約者にあつては、出演発注に必ず応諾しなければならないという義務から法律上解放されているので、職員の如く「継続的」な関係はなく、継続的信頼関係も一般的にいえば極めて稀薄である。

(6) 演奏契約者は、演奏契約の成立または会社の出演発注によつて、直ちに権力関係(学説で謂うところは必ずしも明確ではないが、一般に権力関係という場合は、一方が命令し他方がこれに服従するという関係を示すものであるので、この意味に解することとする)の下に置かれることがないことは上述の通りである。

既述の通り、演奏契約者は会社の出演発注に対し、自由な意思で応諾するか否かを決定するのである。演奏契約者は出演発注があると当然にこれに応じて出演するなどというものではなく、出演発注に応諾しない場合でも演奏契約者は何ら法律上の拘束を受けず、勿論発注に応じないからといつて契約違反などといわれることはないものである。この点会社の職員が雇傭契約成立によつて当然に業務命令に服する義務が生じていると厳密に区別されている。右職員にあつては、その定められた就業時間につき労務の提供について、将に命令服従の関係下に立つている。

右の如く、演奏契約者の出演義務が、演奏契約者自身の自由なる意思に基づいて発注に応じたときに発注するという事実は、極めて重大な意味をもつものというべきである。

二、如是観是、原判決には、原判決の認定した事実を以つてしても使用従属の関係を認めることができないにも拘らず、使用従属の関係の法律解釈を誤り、その結果まことに形式的かつ機械的に使用従属の関係を安易に是認したものであつて、判決に決定的影響を与えているものであるので、原判決は破棄を免れないというべきである。

第四点 原判決は被控訴人の本訴請求を認容すべきものと判断し、その理由として第一審(名古屋地方裁判所)判決理由を引用しているが、右判決理由には次の如き事実誤認、又は理由欠如、理由の不備があり、(民事訴訟法第三九五条一項六号)、審理不尽の譏りを免れず破棄さるべきものと思料する。

(一) 原判決はその理由(三)(1)(イ)において、

「……これら契約者をCBC管弦楽団と呼称し、演攻者として出演させた」と事実を認定しているが、これは甚しい事実誤認である。原判決の掲げる各証拠又は証言によるも、参加人は契約者を演奏契約者又はCBC管弦楽団と呼称したが、CBC管絃楽団と呼称したと謂う事実は存しない。管弦楽団とは事理の当然から一つの管奏者、弦奏者その他のグループである。従つて演奏契約者がその演奏担当で弦であれ、管であれ、その個人が直ちに管弦楽団でもなく、従つて個人契約者の管弦楽団と呼称される筈もない。かかる明かな誤認を第一審判決が繰り返し行つていることは、上述の如く慎重であるべき判決において、原判決が如何に杜撰になしたかを物語るものと謂わなくてはならない。

(二) 原判決はその理由(三)(1)(イ)において、

「これら演奏契約者は、当初採用されるに際してはテストを受け、かつ、身元保証書を差入れたが、」と事実を認定しているが、「かつ、身元保証書を差入れたが……」は、原判決が引用する第一審判決の理由中には存せず、原判決において追加されたものである。これは原判決が原審証人磯部の証言の一部を採用したものと推定されるものであるが、右証言によるも身元保証書を差出した覚えがある程度であつて、身元保証人の氏名、身元保証の期間等が詳かでなく、甚だ不鮮名のものである。

原判決が、磯部の同僚たる第一審証人神谷、当審証人寺西、証人多治見、証人石田、等が身元保証につき一言半句の証言もしていないことを看過し、卒然とかかる事実を認定したことは、全く事実の誤認又は理由不備の判断といわなくてはならない。

(三) 原判決はその理由(三)(1)(ロ)において、

「他社出演は許可ある場合の他は禁止されており、他所出演(個人でアルバイトとして家庭教師や学校の講師をすること)は当初は許可制であり、次いで届出制に変わつたが、……」と事実の認定をしているが、理由(三)(1)(イ)においては、芸能員就業規則を引用して、「就業指定を拒否し、または他所において類以業務に従事したり、または会社の許諾なくして他社出演(会社以外の放送並びに放送関係業務に出演することをいう)することは禁止されている……」と事実認定をなしている。右認定事実を比較対照するときは、前者は他所出演は当初許可制次いで届出制となり、他社は許可ある場合の外は禁止であり、後者は他所は禁止、他社出演は許諾のない場合は禁止と謂うことになつて、両者の認定に差異が存するにも拘らず原判決はその理由を示していない。

このことは事後の判断にも重大な影響を及ぼすこと明かであつて、原判決はこの点よりするも、理由不備、審理不尽の譏りを免れ得ないものである。

(四) 原判決はその理由(三)(1)(ハ)において、

「演奏契約者も通常の職員のそれとは色が異なるがデザインは同じバツチ(バツヂの誤りならんか、)名刺、身分証明書を参加人(会社)から交付され……」と事実の認定をしている。原判決が引用する第一審判決の理由には存しない「通常の職員のそれとは色が異なるがデザインは同じバツヂ」なる事実を認定しておるにも拘らず、身分証明書については証人広江吉信、証人磯部悦雄等の証言によれば、甲第六〇号証の如きは当初だけで専属契約時代である昭和三五、六年よりは契約者たることの身分証明書であつたことは明白である事実を看過して、ただ漫然と判断しているのは全く理由不備の判断といわなくてはならない。

(五) 原判決はその理由(三)(1)(ハ)において、

「専属契約において、使用者である参加人(会社)のなす更新拒絶は実質上解雇と同視され……」と判断し、その前提として、「前示契約変新の実態にてら」してかく解するとしているが、原判決理由(三)(1)(イ)において、その「契約期間」は「一ケ年とするもの」であつたと事実認定し、更らに「契約期間満了後」は「再契約の締結を為していたと事実認定している。又、契約の内容についても、「昭和三二年度までは、当事者いずれか一方から一ケ月前(初年度の契約においては二ケ月前)に解約又は更新の申入をしないときは、自動的に継続延長になる旨指定されていたのが、昭和三三年度から、期間満了一ケ月前に更新の申入が当事者いずれか一方からなされないときは、自動的に解約なるとあらためられた。また、昭和三二年度からは契約期間中でも各当事者は、正当の理由あるときは一ケ月の予告期間をもつて解約をすることができるむねの条項も附加された」との事実を認定しているのであつて、これが所謂原判決の契約更新の実態である。

果して然らば、期間一年の契約において、毎年度新しい内容で新しい報酬額を約し、以て再契約をしているという事実認定を無視し、契約者が十数回契約しているとの事実から、直ちに更新拒否(再契約締結拒否が正確である)を、長年月に亘る継続的契約の存在を前提とする如き「解雇」と同視し得るものではない。この点に付き原判決は、自ら為した事実認定を無視した判断を為しているもので、審理不尽といわなくてはらならない。

(六) 原判決はその理由(三)(2)(イ)において、

「自由契約は、契約文言上からは、他所出演、他社出演は全く自由となり、発注に対する諾否も自由となつたこと、……以上のような契約関係として理解される」と判断し乍ら、一方丁第六号証に基き、

「証人松枝孝治は申立人代理人の反対尋問に対し『いわゆる自由契約において、出演指定(発注)があつても、それに応諾しないことが度重るときは契約書前文に規定する基本の出演義務に抵触する上、契約担当者であつた右証人個人としての意見としては再契約時考慮さるべき事柄である旨』の証号をなしており、また、同人の上司である川崎義盛も同期日における審問において『同契約書第五条後段の契約違反とは、契約者は出演を契約しているのであつて、出演を全然しない或いは出演を全然拒否している場合をも指すものであり、一旦出演を承諾した上で出演しなかつた場合はまた別箇の契約違反を構成する。なお、出演不応諾は自由であるがその程度によつては再契約にあたつて考慮することもある旨』の証言をなしていることが認められる」と認定し、そして、

「右証言内容と徴すれば、本件に於ても、参加人(会社)側は自由契約における本質的契約関係を諾否自由な関係と考えていなかつたことは容易に推認し得るところである」

と甚だ困難かつ複雑な関係を簡単に推認しているのである。しかしながら、原判決が摘示する丁第六号証による松枝証言は、反対尋問において丙第五号証の三の七(自由契約書)の第五項に関する質問に答えているものであるが、その答弁の要旨は、

「契約期間中に解約出来る場合とは、何か不都合なことが起つた場合、例えば刑事事件を起した場合と思います。契約違反とは第三項に違反した場合などです。又出演指定(発注)を非常に長期に亘つて応諾しない場でも直ちに契約違反にならないと思います。

自由契約としてその前段に会社の放送並に放送に附帯する事業に出演することを契約しているのですからその点に抵触するかしないかは研究しなくてはなりません。次年度の再契約については私個人の意見としては考えざるを得ないと思います」であつて、到底原判決の示す如きものとは言えない。又、川崎義盛の証言における自由契約書第五項に関する要旨は次の通りであつて、これ又原判決の示す如きものでなはない。すなわち、

「第五項後段は、契約者が長い病気のためほとんど出演できないという重大な故障があつた場合、或いは会社にとつてとりかえしのつかない不名誉な問題をその当人が起した場合、だれが見ても客観的に正当だと思う場合の例をここに抽象的に書いております。

単なる発注拒否でなくて、契約期間全部に亘つて発注に対する応諾拒否のあつたような場合は、第五項の但し書の違反となるとの意味です。全期間(一年)の内六ケ月発注に応じないときも解約は致しません。

期間中(一年)全然拒否されたというふうな場合ははつきりするのですが、その他のケースの場合は解約しません。

契約途中には解約しません。許可を受けないでCBC管弦楽団の名前を使用した場合は契約違反になります。著作権をよそに売つたり複製権を売つたりした場合も契約違反になります。

一度発注に応じ乍ら、何の理由もなく出演しなかつたときはやはり契約違反となります」

以上の丁第六号証の各証言により、「自由契約における本質的関係」は、その契約書の全文の示す通り、自由な協力契約関係であることは容易に推認できるが、参加人(会社)側が諾否自由な関係と考えていなかつたと容易に推認できる如きものではあり得ない。

再契約締結に当つて、自由な協力契約においてその期間中何等の協力を得られなかつた者との間に契約を締結するか否かは、何人と雖も会社の立場に立てば考慮するのが当然である。このことを述べている丁第六号証の証人の陳述を具体的出演に関する諾否にすりかえて、にわかに諾否自由の関係でないと推認することは、吾人の経験則に反し全く審理不尽と謂はなくてはならない。

なお、被上告人労組代表者寺西玄之が、第一審の証言において、

「専属契約ではまずいから条文を変えてきて雇用契約を薄くするような意図が(会社に)ある」

「私の場合ですとうちで(自宅での意味)ピアノを勉強したり、ラジオを聞いたり、そういうようなことです。もちろんそういうことばかりじやなく、ほかの生活のいろんなこともありますけれど……」

「(自由契約になつてから、発注を)私自身は、断つたことはありませんけれども、そういう方があるかもしれません。……それはほんの少数だと思います」と陳述している点に鑑みても、一層原判決の推認が吾人の経験則に反するものであること明白である。

(七) 原判決はその理由(三)(2)(ニ)において、

「右のような出演時間の急激な減少は、全く演奏契約者の予想していなかつた事態であり、もともとその将来の生活の保障するからということで募集されたこれら契約者は、参加人の発注を常時期待していたであろうことは、容易に推測できる。

これに加えて、先に説示したとおり、参加人の発注に対しては、原則として拒否できないという基本的な契約関係は、専属契約時代と同質的に存続しているとすれば、演奏契約者の社外ないし他所出演は当然に制約を受けることになるから、発注の量がいかに減少したとしても、現実に発注された特定の時間以外の時間の全部が常に演奏契約者の自由なる処分に委ねられていると見ることは困難である」と判断しているが、

右判断には次の如き事実誤認が存する。すなわち、

(1) 原判決も掲げる丙第一号証の三によれば、契約者も出演時間の急激な減少を充分認識していたもので、おそらく仕事がないからとてずぼらを構える場合もあつたのである。かかるが故に、契約者の半分位はすでに優先契約時代に社外出演をなし、会社もその傾向をみて現実にあわせて自由契約に変更したものであるし、原判決も認定する通り社外出演を勧奨さえしていたのである。

(2) かかる経緯は、原判決の掲げる第一審証人磯部悦雄がその証言において

「それからフリー化のような契約書を突きつけられるような状態になりまして」と述べていることからも明らかであり、発注に応諾した時間以外は、音楽家として必要な自己研修も含めて全く自由に自己の時間を使用処分していたのでる。そしてこのことは、前示の通り被上告人労組代表者寺西玄之も認めるところである。

かかる看易き事実を看過してなした原判決は、事実誤認、審理不尽といわなくてはならない。

(八) 原判決はその理由(三)(2)(ホ)において、

「演奏契約者も(これは「演奏契約者は」の誤りであろう)、参加人が一方的に決定した契約容要に基いて、年間を通じ芸術的労働力の提供者として、参加者が一方的に指定した日時、場所、番組の内容に従い、制作担当者の指揮監督の下に、参加人に芸術的労力を提供し、その対価として一定の報酬を受けているものであり、その限りにおいて参加人に従属する労働者であると解するのが相当である」旨判断しているが、すでに明らかな如く、契約者は会社が日時、場所、番組内容を特定してなした出演発注に対し諾否の自由を有し、応諾した場合に初めて具体的出演義務が生ずるのであつて、年間を通じては、前述の通りその芸術的技能を以て、自由な立場で会社の制作する放送番組に対し協力する契約関係を有するに過ぎない。換言すれば、自由契約は、あたかも継続的売買契約において基本的契約書により大綱が抽象的に規定され、具体的、個別的義務は、各取引において、右大綱に則つた具体的申込とこれに対する売主の具体的承諾があつてはじめて発生するのと同様なものである。すなわち、最初に締結される自由な協力関係を規定する基本契約が丙第五号証の三の七の契約書であり、会社からの具体的申込が出演発注伝票によりなされ、これに対する契約者の承諾により、はじめて、具体的出演契約による個別的義務が生ずるという基本的関係にある契約である。そして一旦発注に応じ、具体的出演義務が生じた以上は、その放送番組の制作担当者の指示する発注段階で特定された条件に従い、その番組の完成に協力し、その演奏技能を発揮し協力するものである。右制作担当者の指示は、放送番組完成の設計監督をする所謂演出であり、演奏契約者はその個々の部分に対する協力者であつて、雇傭契約における使用者の労働者に対する指揮監督とは、その形からも質からも全く異なるものである。

従つて、右をもつて会社との間に支配従属関係があるとは到底考えられないところである。右演奏力提供の仕方は、一回限りの請負契約において、契約を締結した後の請負人が注文主の指示した内容により、命じられた仕事をその本旨に従つて完成することと全く同様であつて、その本質が請負契約に極めて類似の契約の型である。

従つて、この点からも従属的労働関係のないことが明白である。かくて原判決はこの事実を誤認して判断しているものと謂わなくてはならない。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例